じぶんに自信がない。
きっと、そう感じている人は多いと思います。
わたしは、じぶんに自信を持てているほうではありません。
どこか、劣っている気がする。
もちろん、人間なので完璧であることなんて無理だと思うのですけど。
でも、どこかでぽっかりと、心に穴があいているような、そんな気持ちを抱えていました。
今日は、ひさしぶりに「心の片付け」をしていきます。
ぱっかんを経験したのだけれど
心屋仁之助さんのブログを読まれている方なら、”ぱっかん”という言葉を耳にされたことがあると思います。
わたし、以前その”ぱっかん”を経験しました。
「それだけはアンタなんかに言われたくない!」って思ってるところに、答えがある。
でも、そのぱっかんは長続きせず、いつしか消えていってしまいました。
心が風になるってこういうことか!って、とても実感できていたのに。
でも、それって仕方のないことみたいです^^;
1度ぱっかんしたからって、すべてが変わることなんてない。
(そのときは、すべてが変わったと実感できていたのは確かなんですが。)
嫌われる勇気にもありますが、心の片付けのような「じぶん自身を見つめること」というのは、一生涯にわたって続くようなもの。
何度も何度も向き合って、少しずつ答えをじぶん自身で導き出していくことなのだそう。
なにかに悩んだり、考え込んだり、ひどく気持ちが落ち込んだとき、どうしても、1度で元気になる方法や答えを探してしまうけれど。
それはできないってこと。
少しずつじぶんを学び直していくことになる、ということなんです。
だから、1度のぱっかんですべてが解決はしていなかったのでした。
嫌われる勇気からの学び
ここ最近、またじぶんのことでいろいろユラユラ揺れていて。
とても無価値な人間なんではないだろうか、という思いが、わたしの心にまとわりついていました。
わたしがあの場所へいく価値などない。
わたしのことなんて、だれも歓迎していない。
わたしはきっと嫌われている。
だれにも言われていないのに、こんな感覚に陥ってしまったんです。
以前だととても耐えられるような心境ではないのですが、やはり1度でも”ぱっかん”を経験していると、ユラユラしながらも、見つめ直すことができるのかもしれません。
また、心屋さんの本を読んだり、講演会のことを思い出したり、嫌われる勇気を読んだりして、じぶんを見つめなおしていました。
じぶんはじぶんである、ということ
あの人のように、すごい人になりたい。
あの人のように、愛されたい。
あの人のように、行動的になりたい。
そう思ってしまうことってありますよね。
じぶんなんてどうしようもない人間よりも、わたし以外のだれかになりたい。
そうしたほうが、きっと幸せだ。
わたしも、そう考えていました。
でも、嫌われる勇気の一節を読んで、わっ!とある感情が湧き上がってきたんです。
嫌われる勇気は、青年と哲人との対談方式で話が広がっていきます。
青年は、「ひまわりのように明るくて人当たりのいいYさんのようになりたいけれど、そんなことは到底できない」と言います。
「人の気質や根底は変えられない。傾いている上にいくら積み上げても、いつかガラガラと崩れ落ちる」と。
哲人はこう返します。
「どうしてYさんのようになりたいのか?別人になりたがる、その目的は?」
青年は答えます。
「わたしはYのことが好きだし、Yのようになれたら幸せだと思うから」と。
哲人はまた返します。
「では、いまは幸せではないのですね?」ーーーーー
いまのわたしに、ぴったりの一節です。
わたし以外の何者かになれたら幸せだ、と感じているのですから。
そんな別人になりたがる青年に、哲人はこう続けました。
あなたはいま、幸せを実感できずにいる。
なぜなら、あなたは自分を愛することができていない。
そして、自分を愛するための手段として、「別人への生まれ変わり」を望んでいる。
Yさんのようになって、いまの自分を捨てようとしている。
違いますか?
わたしは、ハッとしました。
ほかでもないじぶん自身を、捨てたいと考えていると突きつけられたからです。
わたしが、わたしを捨てる・・・??
わたしを捨ててどうするの??
・・・そんなの、イヤだ!!
って、ボロボロと泣けてきたんですよ。
どうしてそんなにわたしのことを嫌うの??って。
捨てようとしてごめんね、本当にごめんね・・・って。
幸せになる勇気
どうして、わたしはじぶんをここまで拒否しているんだろう?
わたしはすごくない。
わたしは愛されてない。
じぶんでじぶんのことをそう決め付けている。
どうしてそう思うのか、原因なんてわかりません。
きっと、いろんなことがあったんでしょう(笑)
嫌われていると思い込んでいたほうがいい、なにかがあるのかもしれません。
だけど、わたしがわたし以外の何者かになろうとしても、現実としてなれるわけがありません。
そして、わたしがわたしを拒否し続けていたら、いつまで経っても、現実感も持てないし、生きている実感も持てない。
わたし自身が、「このわたし」を好きにならない限り。
これまで、インナーチャイルドとかなんとかって、全然信じていなかったんです。
そんなもの、どうとでも言えるでしょって。
でも、今回のことで、インナーチャイルドの存在がわかった気がします。
わたしが、わたしを傷つけている。
ほかのだれでもない、このわたしが!
小さなわたしが、捨てないで!って、置いていかないで!って、もう傷つけないで!って言ったような、そんな感覚に包まれました。
わたしがわたしを捨てていったら、だれがわたしを守ってくれるんだろう。
ちゃんと世界を見てみたら、わたし以外のだれも、わたしのことを傷つけたり、否定したりはしていないのです。
わたし以外の何者かになりたいだなんて・・・
娘たちが知ったら、どう思うのだろう。
お母さんがいなくなっちゃうって思うかな。
そう考えると、なんだか泣けてくる。
もし、いまのじぶんが嫌いと感じることがあるのなら。
じぶん以外の何者かになりたいと感じているのなら。
本当に、「じぶん」というすべてを捨てたいのかどうか、向き合ってみよう。
本心が、ちいさなじぶんが出てきてくれるかも。
だれからも守ってもらえず、じぶんからも傷つけられて、小さくうずくまっている幼い頃のじぶんが。
“大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである”
アルフレッド・アドラー